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アシュタンガヨギーみんなのバイブル。フルプライマリーシリーズのアサナの写真と解説が詳細で、練習に行き詰まると開く本。
スーパーモデルのクリスティー・ターリントンもアシュタンガヨギー。ゴヴィンダ先生も彼女に教えていたらしい!この本にもゴヴィンダ先生が登場。
これからアシュタンガヨガを始めようとしている人やビギナーにオススメ。
「ヨガはトレーニングではなく、生き方です。」の言葉がすべてを物語っている。ヨガを通したライフスタイルや考え方が、分かりやすい言葉で書かれている。
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今の私をつくった人に会ってきました


今日は西村佳哲さんのトークイベントに取材で行ってきました。

西村佳哲さんは「自分の仕事をつくる」という本をはじめ、様々な働き方を紹介したり、働くということについて考えたりする “働き方研究家” であり、リビングワールドという会社の代表であり、プランニングディレクターです。

そして、今の私をつくった人でもあります。

東京で働いていた頃に読んだ、西村さんの「自分の仕事をつくる」という本が、“自分の働き方” というものを突き詰めて考えるきっかけをくれました。長くなるから端折るけど、それから色々あって、悶々と考え続け、すぐに答えは出なかったし、まっすぐ進んだ訳でもなかったけど、8年経ってようやく今、自分らしい働き方ができつつあるなと実感しているところです。

そんな西村さんの話が生で聞ける!しかも仕事で………!!!これが感激せずにいられようかというシチュエーションですよ、ほんと。



しかも、トークイベントの西村さんの話は、頭にも胸にもこれでもかと突き刺さるものばかり。「あぁ、私の歩いてきた道は間違ってなかったんだなあ。あちこちぶつかって、遠回りして、ぐちゃぐちゃの凸凹道だったけど、よかったなあ」と込み上げるものがありました。

というか、感覚的にはこんなしんみりした感じじゃなくて、脳天のサハスラーラチャクラが一気に全開!って感じです。ヨガ的過ぎて表現が気色悪いかもしれないけど、ムーラダーラからサハスラーラまでスコーンッと貫通して、なんだか分からないエネルギーがぐあ〜っと通ってぐるぐる回ってるような感じ?もう何と言葉で表してよいのやら分かりません。「感動」なんて言葉はお行儀が良過ぎてなんか違う。脳みそがゼリーみたいにフルフル震えてるような感じです。

ともかく、そんな西村さんの話を聞いて、取材ということも忘れそうになるくらい感動に打ち震え、光栄なことに紹介していただいてご挨拶もでき、大事に抱えてすり切れるほど読んだ本にサインもしてもらいました!はあああ、ありがたい。


鉛筆をわざわざ選んでとても丁寧にサインしてくださいました


これがそのサイン

トークイベント後の交流会では、参加者のお悩み相談やサイン攻めに遭っていたので、一緒に写真を撮りたいけど大変そうだから勝手に隣に座って撮っちゃえ、と隠し撮りしていたつもりが、ちゃんと分かってピースしてくださって…めっちゃ気さくないい人でした。はあああ。


気が付いたら後ろでピースを☆

このぐしゃぐしゃした気持ちを一度外に出しておかないと、冷静に記事なんて書けそうもないし、眠れそうもないから、とりあえず書いてみました。完全に自己満足。

でも西村さんの本もご本人も、本当〜〜〜にすてきなので、興味と機会があれば、ぜひ触れてみてください!特に、仕事に行き詰まっている人や、働き方を迷っている人にはおすすめです。

取材の記事は今週書きます。以上!


………と、ここまでが昨日のトークイベント直後の興奮冷めやらぬ状態の感想でした。今朝読み直してみると、ブログの時間帯と同じく正に真夜中に書いたラブレター状態。赤面ものです。改めて教訓は正しいということを思い知らされました。

まぁ、でも私は、書くことでパンク寸前の感情やエネルギーを破裂しないように逃がしているので(ポジティブもネガティブも)、これも必要な作業だったとは思います。ただ、これではあまりにも西村さんの魅力が伝わってなさ過ぎる、と反省したので追記することにします。

西村さんの、著書の中でも、自分の働き方というものを考える上でも、ご本人の生き方にしても、中心になっているポリシーやメッセージは「自分に正直であること」だというのが、昨日はとてもよく伝わってきました。

トークイベントの最中に、西村さんは自分の言葉を言い直すシーンというのが何度もあって、最後の質疑応答の時に「言葉を慎重に選び直しているように見えたのですが、その意図は何ですか?」というような質問がありました。

それに対して西村さんは

 “お腹の中” と “腹の底” というのは、違う言葉でもあるし、自分でも感覚として違う場所を指していると思っていて、腹の底にあるのは言葉じゃないものだと思うんです。それをぐぅーっと上に上に、胸から喉に上げてきて、口から出した時に「あれ、なんか違ったな」と思うことがあるんです。違うと思った時は、もう一度腹の底まで戻って行って、どういうものか触ってきて、それをまた口から出すようにしています。

というようなことを答えていました。これが西村さんの正確な言葉ではないけど、大体こんな感じのことでした。違うと思ったのにそのままにした時は、帰り道で大体凹んだり頭を抱えたりするのだそうです。だから言い直すのだと。

これを聞いた時に、正直ポリシーで生きてる人だというのを確信しました。

西村さんの話や雰囲気は、なんだか長年ヨガを教えている先生みたいだなと思っていたら、別の人は「お寺の住職とかお坊さんの話を聞いてるみたいだった」と言っていたので、やはり突き抜けた人、徳の高い人というのは、みんな同じ感じになっていくのでしょう。

まだまだ書き足りないくらい、すべての話がすばらしかったのだけど、書き過ぎると仕事で書く事がなくなるのでこの辺で(笑

私は「自分の仕事をつくる」しか読んでいないけど、その後に出版された仕事3部作の他の2作や、別の著書もよさそうなので、読んでみたいと思いました。


| それ以外の何か | 01:11 | comments(4) | trackbacks(0) |

something newな時間
ワークショップと言えば…

ヨギーだったらマイソールクラス+レクチャーとか、新しいビジネス系の人たちならトークショー+ディスカッションとか、人によって想像するものは微妙に違うと思いますが、今回は九谷焼の「上出長右衛門窯」が「丸若屋」と共同運営している「KUTANI SEAL」のワークショップ@群青に行ってきました。

長皿・茶碗・そばちょこ・フリーカップの中から器を1つ選んで、あとは好きに九谷焼シールを貼っていくだけ。やってることはまさに図工の時間みたいな感じで、久しぶりの工作にワクワク。


モヤモヤの末にできた殿さまカップ。
なんだかんだ言っても気に入ってる。
これでビール飲むのが楽しみ♪


…が、こういうのって本当に性格出ます。

まず器が決められない。最初はそばちょこを選んでたのに、自分が使いたいシールが大きくてうまく貼れそうにないから、結局フリーカップに器を変えてもらったり。

使いたいシールは、それだけでサマになる形だったから、それを崩したくなくてあまり冒険できなかったり。好きなだけシールが貼りたい!という欲求と、ちゃんと使いたいから失敗したくない!の葛藤。で、結局失敗しない路線を選ぶ小心者。



なんてモヤンモヤンしている隣では、中学生のGKが自由で斬新な感性を爆発させて、シール貼りまくり、組み合わせしまくりのすごく面白い茶碗を作ってました。あぁ、こういう自由で大胆なところは私には無いなぁ、と自分を省みましたよ。

ワークショップが終わってからも、あれは引き算の美学なの、Less is Moreなの、と自分を納得させてみたり。かと思いきや、やっぱりあそこをああやってもよかったなぁ、なんてもう一度やりたい気持ちがムクムクと湧いてきたり。せっかく自分で作れるんだから、売り物みたいにキレイに収まってるものを作らなくてもよかったんじゃないかと思ったり。出来映え自体には満足してるのに、なんとなく不完全燃焼。思ってた以上に欲望を抑えてしまってたのかも。


ワークショップの後は九谷シールの器で
お茶とお菓子をいただきました♡

帰り道で歩きながらそんなことをグルグル考えてたら、相変わらず過去を振り返って分析するの好きだなと思って笑えてきた。普段はあまり意識してない自分の性格の一部も、すべて並べて棚卸ししたみたいな時間でした。

これって多分新しいことをやったからだろうなと思う。毎日ヨガやって仕事して、と同じようなルーティンで過ごしていると、自分の同じ面しか使わないようになっている気がする。たまにはまったく知らない新しいことをやるのもいいものですね。something newな時間を、意識してもっと作ろうと思いました。

| それ以外の何か | 23:35 | comments(6) | trackbacks(0) |

哲学の部屋
3月17日に愛犬のクリンが亡くなり、4月9日におばあちゃんが亡くなりました。

大学生の頃におじいちゃんが死んでから、ずいぶんと長い間身内の死とは縁遠かったのに、1ヶ月もしない間に2つも続くなんて、これも何かの因果なのでしょうか。

おばあちゃんは、私がちょうど福岡に帰ってきた7年前から、ほぼ寝たきりのような状態でした。運良く、元々住んでいた家の目の前の、介護ケア付きのマンションに入れたので、以前と変わらないくらい近くに住んではいたけれど、私が東京から帰って来てからは、まともに意思の疎通ができた記憶はほとんどありません。

ここ数年は、口から食事を取ることもできず、言葉も話せず、目が見えているのか、耳が聞こえているのか、感情や意思があるのか、私たちには何も分からず、ただ寝て起きて息をしている、というような状態でした。おばあちゃんに会いに行っても、私が一方的に最近の出来事や、家族のこと、天気のことを話すだけ。

一度肺炎か何かで危ない状態になったけど、それから持ち直してまたケアマンションに戻ってきたおばあちゃんは、前よりももっと人間味が無く、動きもせず、息をしているだけの生き物みたいになっていて、それでも「医学的には健康だ」というのを聞いた時には、健康って何なんだ?と思いました。

その頃から、おばあちゃんは人生の最後の力を振り絞って、私に哲学を教えてくれているのだと勝手に思うようになって、おばあちゃんの部屋のことを、心の中で「哲学の部屋」と呼ぶようになりました。

生きるとはどういうことか?
死ぬとはどういうことか?
幸せとは………?

そのうちに、哲学とは答えのない問いなのだと分かりました。
正確に言うと、正しい一つの答えなどない、という意味です。

ここ数ヶ月は呼吸をするにも大きな音を立てて、苦しそうな状態が続いていました。4月に入っておばあちゃんの部屋に行った時は、これまで以上に本当に苦しそうに息をしていました。こんな状態が通常の呼吸だとしたら、人間だけじゃなくてどんな動物でも長続きはしない、直感的にそう思いました。

できるだけ楽に呼吸ができる方法は無いものかと、「鼻で吸って口で吐くと楽だよ」と言いながら、一緒に呼吸をしてみたりしたけど、しばらくするとまた苦しそうな呼吸に戻りました。

それから数日後におばあちゃんは亡くなりました。

寝たきりの状態になってからは、子どもの頃から知っていた「私のおばあちゃん」は、私の中ではすでに死んだも同然のように感じていたけど、実際のおばあちゃんの生物学的な死は、思いのほか精神的に衝撃がありました。あの哲学の部屋が物理的に無くなったことで、哲学の部屋は私の中に引越してきたみたいです。

結局、解けない問いをずっと抱えて生きていくことになるのでしょう。

さっき、もう一人のおばあちゃんの家に行ったら、「おばあちゃん亡くなって大変だったね」とお悔やみを言ってくれました。「生かされているだけは辛いというのが分かるから、私はいつも祈っていたよ」と言ってました。

死んだおばあちゃんは99歳で、それよりも3つ年下の生きているおばあちゃんは、耳が遠くて補聴器無しではほとんど聞こえないし、足腰も弱ってて杖無しじゃ歩けないし、それなりに年老いてはいるけど、こうやって意思の疎通ができて普通に会話ができるのは、やっぱり幸せで、生きてるなあと思います。

いのち短し恋せよ乙女。
生きてる間は、生きてることに慢心せずに、めいっぱい生きましょ!

| それ以外の何か | 20:11 | comments(4) | trackbacks(0) |
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